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元バスケ、3x3日本代表・伊集南「良い結果を出すには…」母校の筑波大で学んだチーム成功術

筑波大学女子バスケットボール部

OG:

伊集南(いじゅ・みなみ)さん

沖縄県出身。中学からバスケをはじめ、糸満高等学校卒業後、筑波大学ではインカレ優勝、ユニバーシアード日本代表にも選出。卒業後はデンソーで活躍、3x3日本代表に選出。引退後は同社に嘱託社員として在籍しながら2024年度3×3女子日本代表チームのサポートコーチに就任。ほか、3x3代表部会、3x3委員会に所属、Wリーグの理事も兼務。

ひと目でわかる! チームの特色

  • 自主性を重んじる
  • 学年ごとに、責任が伴う役割を任う
  • 関係の質を学び、高められる

NBAで感じた、バスケは「人を魅了するスポーツ」

「今の私があるのは、筑波大学に入ることができたおかげです」と話す、元日本代表で現在は3x3女子日本代表サポートコーチを務める伊集南さん。現役時代はエンタメ性溢れるアグレッシブなプレーで観客の目を釘付けにしていた伊集さんに、礎となった同大女子バスケットボール部所属当時のことを振り返っていただきました。

“異色の経歴”からの入部に至る経緯や、同部ならではと言える特徴、得られた気づき、学びなどをたっぷりと語っていただいています。

ー小学生の頃は野球をやっていたそうですが、バスケとの出会いから教えてください。

男の子に混ざって少年野球をやっていましたが、中学で続けることは難しく、違うスポーツをやりたいと考えていました。その時にたまたまNBAの試合をテレビで見て、衝撃を受けたことが始まりです。

一気に魅了されたんですよ。そこから見よう見まねで練習をしました。設計士の父が、自宅に小さな体育館のようなプレイルームを作ってくれていたんです。そこで、ブランコや卓球、野球の壁打ちなどいろいろな遊びやスポーツをしていました。NBAにハマってからは、そこはバスケコートと化しましたね。

 

「父が設計してくれたプレイルームです」(写真提供:伊集南さん)

 

NBAは、言うまでもなく世界最高峰の男子バスケのプロリーグです。一流の選手たちが、観客を一瞬で虜にするような、アクロバティックなプレーをこぞって披露しあう世界です。

そこが入り口だったので、私にとっては「バスケ イコール 多くの人を魅了するスポーツ」なんです。この“NBAきっかけ”が後々影響を及ぼしたり、そこから恩恵を得たりするのですが(笑)、当時は世界トップレベルのバスケに近づきたいという思いで、必死にやっていたなと思います。

ー“NBAきっかけ”の影響や恩恵とは、一体何があったのでしょうか。

まず、中学でバスケ部に入り、カルチャーショックに近いものを受けました(笑)。NBAのシュートと言えば、ワンハンドなんですよ。ですから、シュートは片手で打つものだと認識していました。野球をやっていたこともあり、私は最初からワンハンドができたんですね。でもそれって、その年代の女子にとって実はすごいことだったようです。入部したら、女子はみんな両手でシュートを打っていました。

そこで初めて、日本のバスケにおいて男子はワンハンド、女子はボースハンド(両手でシュートを打つこと)が一般的だと知り、男女の違いを感じました。とはいえ、最初に見たシュートがワンハンドでしたので、私はそれを打ち続けました(笑)。

“NBAきっかけ”がもたらしたことは、それだけではありません。最大の出来事は、筑波大に入る時にありました。

無名の私が筑波大バスケ部に入れた理由

ーでは、同大同部へ入部した経緯も含めて教えてください。

最初に言わせていただくと、バスケも学業も日本トップレベルの大学に私が入れたのは、奇跡に近いことです。でも、それは父や恩師を始めとしたいろいろな方々のおかげと、私のバスケへの入り口がNBAであったことも要因だったと思っています。

私、全国大会出場の経験がないんですよ。高校最後の県大会は決勝まで進みましたが、再延長戦の末、負けてしまいました。すごく落ち込んで、卒業後は実業団へ行く話もいただいたのですが、このままの状態で入団しても自分が潰れてしまうと思ったんですね。勉強もしっかりやりたいと思い大学進学を志しました。

大学といっても、もちろん筑波大という雲の上の存在のようなところは全く考えていませんでした。ですが、恩師である当時の監督へ父と相談に伺った時に、父が突拍子もなく「先生、筑波大って行けないでしょうか」と言ったんです。突然のことで私は驚きましたが、先生が「ツテもアテもないですが、やってみますか」とおっしゃって。そこから私は、自分のプレーを集めたDVDと志願書を送ったのです。

筑波大のスポーツ推薦枠(学校推薦型選抜)は、強豪校ですし、簡単に入ることなんてできない狭き門です。なのに、そこに私が入れたんですよ。どうやら、スポーツ推薦を志望する何人かが筑波大への進学を選択せず、Wリーグに行くことになったと。そこから、「あなたのプレーは面白い」といろいろな方々に筑波大を受験することを後押ししていただきました。

高校でも初の筑波大進学ということで、先生方に職員室でハイタッチしてもらったことを覚えています。もうここから悪いことはできないなって思いました(笑)。

ー面白いとは具体的に何だったと思いますか?

私のプレースタイルだと思います。そこに“NBAきっかけ”が関わってきます。「ワクワクするようなプレーをする」「ボールを持ったら何するかわからない」「男子のようなプレーだね」というようなことをよく言われていました。全てNBA仕込みです(笑)。

先ほどお話ししたワンハンドシュートの他にも、レッグスルー(股抜き)からアタックしたり、ワンハンドでステップバックしたり、ダブルクラッチしたり。バスケを始めた当時はデトロイト・ピストンズが黄金時代で、その時のフォワード、リチャード・ハミルトン選手のフリースローをよく真似たりもしていました。

私がバスケを始めた頃、父が「見ている人は観ている」というようなことを事あるごとに言っていたんですね。父としてはそんなに意識していなかったかもしれませんが、本当にその言葉通りだなと思います。いろいろな人が見てくれていたからこそ筑波大に進学できて、今の私につながっています。

また、私は全国大会に出場できませんでしたが、エンデバー(※)という制度の参加経験があったので、それが自分の評価につながる活動のひとつだったと思います。

※エンデバーとは、U12、U15、U18の世代ごとに将来有望な選手たちを集めて育成する制度。都道府県別に行われるが、トップエンデバーはそこからさらに選手を選出し、各カテゴリーの日本代表を見据えて指導を行う。

入部後、目に飛び込んできたのは…

ー入学、入部された当時の心境はいかがでしたか。

バスケ部に入った瞬間、目に飛び込んできたのは、バスケ雑誌に載っていた人たちばかりでした。当時の私は、図書館で見る月刊バスケットボールが唯一の情報源だったので、その誌面で見た人たちが自分の先輩であることが、にわかに信じられなかったですね。

私はそれまで沖縄から一度も出たことがなかったので、寮から大学に通い、1限から5限までびっちり授業を受けるという大学生活自体、刺激的で大変でした。

特に最初の1年間は、めちゃめちゃ必死でしたね。でも、帰りたいというよりは頑張らなきゃ!という思いの方が強かったです。いろいろな人のおかげでいただいたチャンスを、キツいからといって台無しにしてはいけないと思い踏ん張りました。

ー大学の運動部、しかも強豪というと、勝手なイメージで上下関係が厳しいのではと思ってしまいます。部の雰囲気や特徴を教えてください。

社会性を身につけるための、ある程度は必要なレベルの厳しさでしたね。

部の特徴として、学年ごと、そして1人ずつに任されていた仕事がありました。
1年生なら、練習や試合などの全ての始まりを行うことが役割でした。練習をうまく行うため、ミスを防ぐために毎日の予習を欠かさず、プレーで意識することや練習の意図など、考えながら取り組んでいました。

2年生は1年生の世話をすること。1年生がした失敗は2年生の責任になります。3年生は、4年生のサポートです。4年生のプレッシャーを支えなければいけません。そして4年生は、いかにチームが勝てるか、戦略を立てるのが役割です。

縦と横の関係を構築しながら、自分に与えられた仕事が試合や練習につながり、少しでも怠ると活動が成り立たなくなるということを代々伝えていく文化がありました。そういった大切なことをバスケを通して学ぶことができたのはとても大きかったです。

また、当時の監督で昨年亡くなられた大高敏弘先生にはすごくお世話になりました。懐が深く、誰にでも温かく優しい方でありながら、時には厳しく指導してくださりました。
メリハリをつけながら、深い愛で私たちを包んでくれたんです。本当に素晴らしい方と出会うことができたと思います。

人間関係の質が高まれば、良い結果が生まれる

ー4年間で印象に残っているエピソードもお聞きしたいです。

1年生の時に初めて日本一を取ったことです。私も決勝の舞台に立たせてもらえました。それこそ高校では全国に行けなかった人間が、1年後に日本一となり、金メダルを胸に下げているわけですよ。今でも鮮明にその時のことを覚えていますが、高校時代とのギャップに我ながらすごく驚きました。

また、苦しい練習を経て決勝に行けたものの、決して満足のいくプレーではなかったので、高みを目指す強い気持ち、さらなる意欲が芽生えました。
しっかりステップアップしていかなきゃと奮起し、どんどん練習を積み重ねていきました。そこから2年生ではユニバーシアード日本代表となり、日の丸を背負う経験もさせていただきました。

4年生の時に全日本総合選手権(オールジャパン)で、ベスト4進出をかけて富士通さんと試合をしたことも忘れられない思い出です。

代々木第一体育館という大きな会場で、最初は富士通さんへの声援が大きかったのですが、私たちが健闘して接戦となり、次第に「筑波、がんばれ!」という声も聞こえてきました。そして最後はたくさんの拍手をしていただいたんですね。学生という身分で、実業団を相手に善戦できたのはとても嬉しかったです。

加えて、残り1、2分のところで、富士通さんが粋な計らいをしてくれたのです。富士通にいる筑波のOGを全員出してくれたんですよ。ほんの僅かな時間でしたが、コートは新旧入り混じる筑波カラーに染まりました。

OGのうち1人は、私が1年生の時に4年生だった先輩でした。ゲーム終了後、その先輩と握手をした際に「おつかれさま!」と言われた瞬間は、一気に涙が溢れましたね。これまでやってきたことが走馬灯のように浮かび、やり切ったぞという思いや先輩たちの顔も相まって、胸がいっぱいになりました。

この試合はテレビで放送されていて、卒業後デンソーに入団してからも素晴らしい試合だったと言われました。また、試合以降、Wリーグへ進む後輩も多くなったので、得たものは大きかったと思います。

「富士通さんとの試合直後に、4年生全員で撮りました。みんな晴々とした表情をしていますね」(写真提供:伊集南さん)

 

ー最後に、筑波大女子バスケ部で得られた気づきや学んだことを教えてください。

大学生活は自分次第でいかようにも変えられる、ということです。それには目標や目的、ビジョンを持つことが大事。それらがあれば、どんどん前進できると思うようになりました。
授業や課題など大変なことも多かったですが、全ては自分がこうなりたいという未来につながっていると考えるとワクワクしたんですよね。

そういった思考を持つことができたのと、繰り返しになりますが、やはりいろいろな人が私を送り出してくれたから、頑張ることができたのだと思います。私はキャリアのない無名の選手、いわば異色の経歴だったので、もっと新しい自分、成長していく自分を見たいという願いも強かったと思います。

そして、なんといっても人間関係の質を高めることができたのが大きいですね。より良い結果を生む付き合い方を学ぶことができました。

それはシンプルに言えば、周囲の人たちとの関係を大事にすることです。「自分に関わってくれることは当たり前ではない」と思えば感謝の気持ちが生まれます。「自分のやっていることが何かにつながる」と思えば、頑張ろうという気持ちが湧きます。

相手を知る。自分を知ってもらう。同じ目的や目標を共有し、お互いに理解する。それらを一つずつ丁寧に行えば、関係の質が良くなります。すると信頼関係も生まれるし、自分のことも改められて、物事もうまくいく。即ち良い結果につながる、とわかったんです。

これは、ダニエル・キム教授による、社会でも通じる「成功循環モデル」と同じだったことに気づきまして(笑)、私が教わったり感じたりしたことは間違いではなかったと思いますね。
挨拶だったり、目を見て話すことだったり、些細な返し方にも人間性は現れます。4年間で言葉の重みを学ぶこともできました。

ー大きな瞳でまっすぐこちらを見ながら答えてくださる真摯な姿勢が印象的だった伊集さん。引退後もバスケ及び3x3の普及発展のための活動や、バスケを通しての社会貢献を積極的にされています。このような素晴らしい行いや思想の土台は、この筑波大女子バスケ部で培われたとのこと。入部への道は険しいですが、伊集さんのように目的意識をしっかり持って活動に励めば、まだ見ぬ世界へと飛躍を望めそうです。貴重なお話をありがとうございました。



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